「衝撃!」実は嘘だらけだった有名心理学実験【泥棒洞窟実験・スタンフォード監獄実験】

 様々なメディアで引用される心理学の分野では、過去の有名な実験も数多く含まれています。

 しかしながら、その中には実は嘘や誇張が含まれていた実験も存在します。

 本記事では、その中でも代表的な「泥棒洞窟実験」「スタンフォード監獄実験」について、その真実や実験の詳細、嘘や誇張が生じた原因について検証していきます。

 心理学の分野において、正確な情報や理解が重要であることを再認識し、より深く掘り下げていきましょう。

誇張された泥棒洞窟実験

 「泥棒洞窟実験」とは、研究者のムザファー・シェリフが行った、一緒に楽しいことや娯楽を共にするよりも、協力して何かに取り組む環境が与えられた方が、お互いに良い人間関係が形成できると証明した研究のことである。

 仮に敵対している両チームが協力しなければ達成できない課題を与えられたら場合、その敵対意識が解消され、両チームが互いに仲間意識を形成できると考えれている。

 しかし、後にこの研究は欠点が見つかった。

 実際に調査を受けたら被験者や実験者たちのによって、この実験の大きな偏りが明るみに出てきたのだった。

 始まりは、1954年6月19日のこと、オクラホマ市のバス停で12歳前後の少年12人がバスを待っていた。

 知能指数は平均的で、学業成績も平均的だった。

 実験の対象である全員が心身ともに健康な普通の子どもである。

 これからオクラホマ州南東部のロバーズ・ケーブ州立公園に行き、サマーキャンプに参加する予定になっていた。

 少年たちに知らされていないのは、翌日、他の少年の一団がやって来て、このパラダイスを分かち合わなければならないことだ。

 また、このキャンプが実は科学実験だということも知らされていなかった。

 そしてこの実験を統括したのは、トルコ生まれの心理学者ムザファー・シェリフ。

 かねてよりシェリフは、集団間の対立がどのように生じるかに興味を持っていた。

 このキャンプは入念に下準備され、研究チームへの指示ははっきりしていた。

 少年たちは好きなことを自由に行うことができ、何の制限も受けない、というものだ。

 最初の段階では、どちらのグループも、もう一つのグループの存在を知らない。

 彼らは別々の建物で過ごし、公園には自分たちしかいないと思っている。

 そして2週目になると、2つのグループは慎重に引き合わされる。

 どうなるだろうか?

 彼らは仲良くなるか、あるいは騒動が始まるか。

 このロバーズ・ケーブ実験は、後にシェリフが「最良の子どもたち」と表現した品行方正な少年たちが、ほんの数日で「邪悪で、心がすさんだ、乱暴な子どもの集団」になることを示した。

 行われたのは、奇しくもウィリアム・ゴールディングが 『蝿の王』を出版した年だ。

 しかし、ゴールディングが「子どもは生来、邪悪だ」と考えていたのに対し、シェリフは、「すべては状況次第だ」と確信していた。

 両グループはそれぞれ、「ラトラーズ(ガラガラヘビ)」・「イーグルス(ワシ)」と自分たちに名前をつけた。

 1週目、互いの存在に気づいていない彼らは、グループ内で協力して作業をこなした。

ロープでつり橋を作り、湖への飛び込み台設置し、ハンバーガーの肉を焼き、テントを立てた。

 ともに走り、遊び、誰もが互いと友だちになった。

 2週目、実験は別の方向へ向かう。

 研究者は慎重に、両グループを互いに紹介した。

 その後、ラトラーズが、「自分たちの」野球場でイーグルスがプレーしているのを聞きつけた。

 ゲームで勝ち負けを決めることになり、ライバル心と競争の一週間が始まった。

 対立は急速にエスカレートしていった。

 2日目、綱引きで負けたイーグルスは、腹いせにラトラーズの旗を燃やした。

 対してラトラーズは夜襲を仕掛け、カーテンを切り裂き、マンガ本を略奪した。

イーグルスは靴下に重い石を入れ、それを武器にして決着をつけようとした。

 間一髪のところで、キャンプリーダー(実は研究者)が仲裁に入った。

 この週の終わりに、ゲームの勝者はイーグルスだと宣言され、そのメンバーは全員、光り輝くポケットナイフをもらった。

 腹立ちが収まらないラトラーズは、また夜襲をしかけて、賞品をすべて奪って逃げた。

 イーグルスの面々が、ナイフを返せと迫っても、ラトラーズはあざけるだけだった。

 一人が「かかってこい、この臆病者」と言って、ナイフをこれ見よがしに振り回した。

 少年たちが殴りあいを始めると、キャンプ場の管理人を装ったシェリフ博士は、すこし離れた場所に座って、忙しそうにメモをとった。

 彼にはすでに、この実験が金鉱になることがわかっていたのだ。

 一応、この後の流れを簡単に説明すると、両者の溝は深まりましたが実験者たちが意図的に協力しないといけない状況、例えば、キャンプの水道を修繕したり、動かなくなったトラックのエンジンが動くまで、押したり引いたりするなどをやらせました。

 すると、それまで対立していた両チームの関係が改善され、それどころか友人を作った人たちまでいたというのが研究の締めになっています。

 この実験を紹介する場合、通常はここまでしか話されませんが、実はまだ続きがありました。

 それはムザファー・シェリフがまとめた1961年のオリジナルの研究報告書に記載されています。

 最初のページでシェリフは「状況によって外集団に対する否定的態度が生じる」と述べている。

 わかりやすく言えば、戦争が起きるということだ。

 それでも、専門的でわかりにくい表現の中に、いくつか興味深い事実を見つけた。

 まず、ゲームでの競争を提案したのは、子どもたちではなく実験者だった。

 当初イーグルスは、その考えにあまり乗り気ではなかった。

 ある少年はこう言っている。

 「彼らとは仲良くできそうだ。そうした方が、誰も腹を立てたり、恨んだりしないですむよ」

 加えて、研究者たちが提案したのは、バスケットボールや綱引きのように、勝ち負けがはつきりしているゲームだけで、残念賞はなかった。

 さらには、接戦になるよう、研究者たちはスコアを操作した。

 こうした陰謀は、ほんの始まりにすぎなかった。

 オーストラリア人心理学者のジーナ・ペリーは、シェリフの実験に関する大量の記録や録音を調べるうちに、過去50年の間に教科書で何度となく語られたあらゆることと食い違う事実を見つけた。

 まず、ロバーズ・ケーブ実験に先立って、シェリフが「現実的葛藤理論」を立証しようとしていたことが判明した。

 「現実的葛藤理論」とは、利害が相反する外集団に対しては敵対的になりやすく、利害が一致する内集団に対しては協力的になりやすい、という理論。

 シェリフは1953年に、ニューヨーク州のミドル・グローブという小さな町の郊外で、サマーキャンプを催した。

 そこでも彼は全力を尽くして、少年たちを対立させようとした。

 後に彼がこの実験について唯一、(しかも脚注に紛れ込ませて)語ったのは、「さまざまな問題と好ましくない。状況のせいでこの実験を中断しなければならなかった」ということだけだった。

 ジーナ・ペリーが、このサマーキャンプの成り行きについて、シェリフの資料から語ったところによるとキャンプの2日目には、少年たちは皆、仲よくなっていた。

 ゲームをしたり、森を駆け回ったり、弓矢で遊んだり、大声で歌ったりした。

 3日目、実験者は、少年たちを「パンサーズ」と「パイソンズ」という二グループに分け、その週の残りの数日、ありとあらゆる手を使って両グループを敵対させようとした。

 パンサーズの少年たちは、グループで着るお揃いのTシャツのデザインとして、平和の象徴であるオリーブの枝のイラストを提案したが、却下された。

 数日後、実験スタッフの1人が、パイソンズのテントを一つ引き倒した。

 パンサーズの犯行だと思われることを期待したが、実験者にとっては腹立たしいことに、両グループは協力して、テントを立て直した。

 次に、スタッフは、パイソンズが疑われるのを期待して、パンサーズのキャンプ地を荒らした。

 少年たちはまたもや助け合って、そこを元どおりにした。自分のウクレレを壊されたある少年は、スタッフを呼び出し、アリバイを尋ねた。

 そしてこう非難した。「たぶんあなたはぼくらの反応を見たかっただけでしょう?」

 日がたつにつれて、研究チームの雰囲気は悪くなっていった。

 お金をかけた彼らの実験は、完全な失敗へと突き進んでいた。

 少年たちは、シェリフの「現実的葛藤理論」が予測するような喧嘩はせず、仲のいい友だちのままだった。

 シェリフはスタッフを責め、午前2時になっても寝ようとせず、酒を飲んでいた(ペリーが聞いた録音テープによると、シェリフはいらいらと歩き回っていた)。

 最終日が近づいたある夜、研究チームのストレスは限界を超えた。

 少年たちはすやすや眠っていたが、シェリフは、子どもたちを仲違いさせるために全力を尽くしていないと言って研究アシスタントの1人になぐりかかった。

 そのアシスタントは自衛のために、薪をつかんだ。「シェリフ博士、そんなことをするなら、こちらもなぐりますよ」

 彼の声は夜の闇に響き渡った。一人の少年が、スタッフによる詳細な観察を記したノートを見つけ、自分たちがモルモットにされていることを知った。

 そうなると、実験は中止するほかなかった。

 この実験で立証されたことがあるとすれば、それは、子どもたちがいったん仲よくなると、仲違いさせるのはかなり難しいということだ。

 この時の少年の一人は何年か後に、心理学者たちについてこう語った。

 「あの人たちは人間の本性がわかっていなかった。子どものことを完全に誤解していた」

スタンフォード監獄実験の幻想

 スタンフォード監獄実験は、フィリップ・ジンバルドーが1971年にアメリカのスタンフォード大学で行われた心理実験だ。

 この実験では、偽の刑務所を作り、偽の受刑者と偽の看守によって監獄を再現した。

 実験に参加した学生たちは、ランダムに受刑者と看守に分けられ、受刑者たちは犯罪者役を演じ、看守たちは、監獄の管理役を演じた。

 しかし、実験が始まると、受刑者たちは理不尽な扱いを受け、看守たちは暴力や精神的な圧力をかけるようになる。

 この実験は、人間の力関係や役割の力、権力の乱用がどのように人間関係に影響を与えるかを研究するために行われた。

 そしてこの実験は、暴力やいじめにつながる可能性を示すとともに、権力者に対する監視が必要であることも示唆された。

 というのが、従来の研究説明となっている。

 しかし、ジンバルドが行った下劣な実験は疑わしいというレベルでは無かった。

 そもそも握造だったのだ。

 それまでずっと、彼の「看守たち」は自発的にサディストになったと思っていた。

 実際、ジンバルド自身も数え切れないほどのインタビューで、その点を強調していたし、看守たちが米国議会の聴聞会で、「法と秩序と尊厳を守るために、独自のルールをつくり上げた」と証言したことさえあった。

 しかし、ジンバルドは実験前の土曜日に行われた、看守たちとのミーティングについて述べている。

 その午後、ジンバルドは看守たちに彼らの役割について手短に説明した。

 その内容は誤解のしようのないものだった。

 ジンバルド:「我々は欲求不満を生み出すことができる。彼らの恐怖心を生み出すこともできる。さまざまな方法で彼らの個人としての人格を奪うつもりだ。彼らは制服を着せられ、けっして名前では呼ばれない。数字を与えられ、その数字で呼ばれるのだ。一般的に、こうしたことのすべては、彼らに無力感を生じさせるはずだ」

 加えて、実験が始まる前の土曜日にはすでに、ジンバルドはあたかも自分と看守が一つのチームであるかのように、「我々」と「彼ら」という表現をしていた。

 後にジンバルドは、実験が進むにつれて自分は自然に看守長の役目を果たすようになった、と言ったが、それは嘘だった。

 初日から彼は采配を振っていたのである。

 このことは、研究の客観性に致命的な影響を及ぼす。

 それを理解するには、社会学者の言う「要求特性」を知る必要がある。

 要求特性とは、被験者が実験の狙い(要求)を推測して、それに合う行動をとろうとすることで、そうなると科学実験は茶番劇に変わる。

 そして、ある研究心理学者が述べているように、スタンフォード監獄実験では、「要求はあからさまだった」。

 では、看守たちは、何を要求されていると思っただろう。のんびり座って、トランプをしたり、スポーツや女の子の話をしたりすることだろうか。

 後のインタビューで看守役を務めた、ある学生は「やることを前もって計画していた」と語った。

「ぼくの頭には、明確なプランがありました。受刑者の行動を引き出し、何かを発生させ、研究者に研究材料を提供しようとしたのです。」

 そもそも、この実験を思いついたのはジンバルドではなく、デーヴィッドジャッフエという修士課程の学生だった。

 ジャッフェと四人の級友は、ある科目の課題をこなすために、自分たちの寮の地下を監獄にするのは名案だと考えた。

 1971年の5月、彼らは友人に声をかけ、6人を看守、6人を囚人にし、ジャッフェ自身が刑務所長になり、24時間限定で、その試みを実行した看守たちは、「囚人は互いを数字でしか呼んではならない」、「囚人は刑務所長をつねに 『刑務所長様』と呼ばなければならない」といったルールを考え出した。

 翌日の月曜日の授業で、ジャッフェはこのエキサイティングな「実験」と、それが参加者に引き起こした強い感情について熱っぽく語った。

 ジンバルドは強く興味をそそられ、自分で試さずにはいられなくなった。

 実験に際して、ジンバルドが心配したのは、次の2点だけだった。

 十分にサディスティックな看守を見つけることができるだろうか。

 人々に潜む邪悪さを引き出すのを誰が手伝ってくれるだろうか。ジンバルドはジャッフェを研究助手として雇うことにした。

 後に、ジャッフェはこう説明した。

「優れたサディストとしての以前の経験をもとに、戦術を提案しなさい、と言われました」以後、40年間、数え切れないほどのインタビューや論文において、ジンバルドはこの実験の看守役には一切、指示を与えなかった、と言い続けた。

 「囚人に課したルール、罰則、屈辱は、すべて看守たちが考え出したのだ」と。

 さらにジンバルドは、実験に参加したジャッフェのことを、看守役の学生で、他の看守役と同じくこの実験にのめり込んでいた、としか書いていない。

 真実はそれとは程遠いものだった。

 17のルールのうち1は、ジャッフェが考案したものだった。

 囚人が到着してからの詳細な手順を決めたのも彼だった。

足首に鎖をつけるのは?彼のアイデアだ。

囚人を裸にするのは?彼のアイディアだ。

 同じく15分間・裸のまま立たせるのは?それもジャッフェのアイデアだった。

 それだけでなく、実験前の土曜日、ジャッフェは他の看守たちと6時間を共に過ごし、鎖と警棒の最も効果的な使い方などを説明した。

 「実験で起きることのリストがここにある。そのうちのいくつかは、起きなければならないことだ」と、彼は語った。実験が終わった後、仲間の看守たちは、ジャッフェの「サディスティックな発想力」を称賛しさえした。

 一方、ジンバルドも、サディスティックなゲームプランに貢献していた。

 彼は囚人を常に寝不足の状態にするために、点呼と称して午前2時半と午前6時に起こすという厳しいスケジュールを立てた。

 また、妥当な罰として、囚人に腕立て伏せをさせたり、彼らの毛布を植物の棟だらけにしたりした。

 独房に入れることも好んだ。

 なぜジンバルドは、ここまで詳細に実験を管理しようとしたのだろう。

 答えは簡単だ。

 彼は看守には興味を持っていなかった。この実験が焦点をあてていたのは、囚人だった。

 強いプレッシャーを受けた囚人が、どう振る舞うかを解明したかったのだ。

 彼らはどのように退屈するか?どのようにイライラするか?どのように怖がるか?

 看守たちは自らを研究アシスタントと見なしていた。

 ジンバルドが看守たちをどう扱ったかを振り返れば、彼らがそう思うのも当然だった。

 看守たちが次第にサディスティックにな一っていったことにジンバルドが衝撃を受けたとか、そうした看守役の変化がこの実験の真の教訓だといった主張は、事後につくり上げられたものだった。

 実験の間、ジンバルドとジャッフェは、因人をもっと厳しく扱うよう看守たちに圧力かけ、厳しさの足りない看守を叱責したのである。

 それでも被験者の大半が最後までやり通したのはジンバルドが報酬をはずんだからだ。

 報酬は日に15ドル(今の約100ドルに相当)だったが、実験が終わるまで、もらえない約束だった。

 看守たちも囚人たちも、ジンバルドの劇的な演出通りに演じないと報酬をもらえないのではないか、と恐れた。

 しかしそうした報酬も、一人の囚人を引き止めるには十分でなかった。初日で彼はすっかり嫌気がさし、もうやめたいと言い出した。

 囚人8612号こと、22歳のダグラス・コルピだ。

 彼は2日目にヒステリーを起こして叫んだ。

 「何だってんだ。ジーザス!もう一晩も耐えられない」

 このセリフは、多くのドキュメンタリーで取り上げられ、実験の録音の中で最もよく知られるセリフになった。

 2017年の夏、一人のジャーナリストがコルピを訪ねた。

 コルピは「あのヒステリーは全部芝居だった」と語った。

 もっとも、コルピはそれをずっと秘密にしていたわけではない。

 実験の後で、彼は何人かに打ち明け、ジンバルドにも告げたが無視された。

 あるドキュメンタリー制作者は、コルピからヒステリーが芝居だったことを聞いて、その部分をフィルムから削除したほどだった。

 スタンフォード監獄実験から何十年も経ったが、今も大勢の人がジンバルドの茶番劇を真実だと信じている。

 囚人役を務めたある男性は、2011年にこう言った。

 「最悪なのは、40年たってもまだジンバルドが脚光を浴びていることだ」

 ジンバルドは、データの分析も済まないうちに複数のテレビ局に実験の画像を送った。

 それから数年で彼は、その時代の最も注目される心理学者になり、アメリカ心理学会の会長にまで登り詰めた。

 さてジンバルドはこのすべてについて何と言っただろう。

 あるジャーナリストが2018年に、あなたがどれほど操作したかが明らかになれば、この実験に対する今日の人々の見方は変わるのではないか、と訳ねた。

 すると、ジンバルドは「そんなことはどうでもいい」と答えた。

 「あの実験について、人は何でも言いたいことが言える。しかし、現時点で、あれは心理学の歴史上、最も有名な実験だ。行われてから50年たっても議論される実験は、他には存在しない。一般の人でもあの実験のことは知っている。あれはもう自らの命を一持っているのだ。わたしにはもうあれを守るつもりはない。この先、あの実験を守るのは、これほど長く生き延びたという事実だ」

参考文献

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